2015.11.21
多谷ピノ
10月25日(日)東大阪市にございます阪本病院デイ・ナイト・ケア「なかまの家」にて、「関西当事者研究交流集会」が行われました。
午前中は、向谷地生良さん、向谷地宣明さんをはじめとするべてるの家、べてぶくろのみなさんをゲストにお招きしての当事者研究が行われました。
午後からは、ランチミーティングを通して、関西で当事者研究を実施しているそれぞれ団体の紹介が行われました。
終始和やかな雰囲気で楽しく交流することができました。
ランチミーティングのあとは2016年に大阪で開催される「当事者研究全国交流集会」についての公開打ち合わせが行われました。
2015.11.13
一ノ瀬かおる
本日は第22回そーね当事者研究会でした。
いつもより参加者さんが多めで、にぎやかな会となりました。
まずは皆様に、自己紹介として「本日の気分」と「当事者研究との関わりについて」ひとことずついただきました。
この自己紹介をしている段階で、すでに様々な苦労のキーワードが飛び交います。その飛び交うキーワードの中で多くの参加者さんの共感をさらったのが、Hさんの「実年齢と自分年齢のギャップがある」という苦労について。
そこで第二部では、この「実年齢と自分年齢」というHさんの苦労をもとに研究を行いました。
例えばHさんが「30歳」だとします。
すると、世間はHさんを「30歳」として扱います。
「30歳」はこういうものだ、こういう要素を持っているものだろう、というまなざしで、Hさんをみてきます。
ですが、Hさんは世間が設定する「30歳」の必要要素は自分にはなく、もっともと幼い気がする。だから、ないものを要求されている気がする。そうではない自分がバレるのがこわい。
と、感じるそうです。
そこで、まずはHさんの頭の中にある「模範の自分像」を点検しました。そして次に、苦労の現場は職場が多いことや、同世代の同性が苦手なことなどがわかってきました。
参加者のみなさんもHさんの苦労に共感することが多く、自然と各自の苦労エピソードも集まってきます。
・自分も以前は、自分が大人でないような気分がしていた。
ただ、今はもう人生の折り返し地点を過ぎたので、あきらめた。
・自分自身は「幼い」「大人」という価値観からはずれて、「枠外」というポジションをとってみている
・Hさんは、自分が幼いかもしれないという不安を抱えながらも、状況を冷静に分析して語れるし、
職場にも行っているし、勇気があってすごい
・幼い自分が嫌だというより、そのような「年齢ものさし」を持っている人との
コミュニケーションが苦手ということなのではないか?
など様々なコメントがありました。
最後は、別の参加者さんからジャケットを借りて、実際にはおってみて、年齢が「+5歳」にみえるかどうか実験してみました。
今回のそーねでは、”べてる式当事者研究”を採用しました。べてる式とは、発表者の方にホワイトボードの前に出てきていただき、インタビュー形式で苦労の展開図を作って、皆で眺め、他の参加者さんは、挙手をして質問や良い部分などを投げかけていく、という形です。実はそーねは、今まで、べてる式とは少しだけ違うやり方でした。発表者と他参加者が明確に分けられている”べてる式”とは異なり、その垣根はあいまいで、各々の意見を自由に語り、その皆の語りをホワイトボードに書き出していく。という形でした。
毎回、来てくださった参加者さんによって具合が変わっていく当事者研究会。
次回の開催は
11月29日(日)14:00〜です。
2015.08.30
酒井清旭
8月30日に第二回そーね家庭菜園講座が行われました。
そのときの様子をご紹介します。
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8月30日に、そーね家庭菜園講座の第2回目をさせてもらいました。
今回は実技はなく一回目開催のときに植えたトマトときゅうりのを育てる中で気付いたこと、思っていることを話し合いました。
良いことも大変なことも参加者と講師の大島さんで交流しました。
私自身がトマトときゅうりを育てる中で抱いた疑問は、花は咲くけど実がならないのはどうしてかなどがありましたが、肥料不足であることがわかりました。
肥料のあげ方にもタイミングがあることも学びました。
大島さんからのアドバイスで自分が育てる野菜の現在の生育具合がわかりました。
そーね家庭菜園講座は、講師である大島さんの「野菜を育てることから人の輪を作って行きたい」という思いや、「土地がない人でもベランダで安心して食べられる美味しい野菜を育てて食べてもらいたい、またそのようなことを広めていきたい」という思いを受け始まったものです。
今回、2回の菜園講座をさせてもらって収穫と課題を感じました。今年はこれで終わりですが、来年、より良い形で講座を開かせてもらえたらありがたいと思っております。
大島さんの野菜とや人の輪に対する熱意にはとても共感いたしました。
これを、そーねが持っている力と、そーねが目指すコンセプトである「生きづらさをワークする」とうまく照らし合せていきたいと思っております。
お手伝いいただいた皆様ありがとうございました。感謝です。
2015.08.06
一ノ瀬かおる
先日行われたそーね当事者研究会。参加者の野田さんから、感想が届きました。掲載の許可をいただきましたので、ここでご紹介させていただきます。野田さん、ありがとうございました。
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今回、NPOそーねさんの当事者研究会に、はじめて参加させていただきました。
わたし自身、大阪市内にある別の当事者研究会に発足当時から参加して、すでに四年が経ちます。
当事者の数だけ、当事者研究があるように、
当事者研究会の団体にも、さまざさまな特徴や差異があるのでは?
よそではどんな風に、当事者研究に向き合っているのだろう?
そんな興味から、そーねさんの当事者研究会の扉を「とんとん」とノックさせていただきました。
前半の「そもそも当事者研究とはなにか?」「当事者性とはなにか?」
「カルテのない自分が、当事者研究会に来てもいいのか?」といった問いは、
たぶんきっと、当事者研究とかかわりがある人もそうでない人も、一度は感じたことのある、
「はたして自分はここにいてもいいのか?」という問いに収斂されていくように、わたしには感じられました。
本当の意味で、生まれてくることを自ら選び取った人など一人もいない。
なんの因果か「生まれてしまった」わたし達は、総じて生きていくことに対してなんだかぶきっちょで、ぶかっこうです。
芸能人とか、スポーツ選手とか、大企業の社長とか、スマートに、かっこよく生きてるように見える人たちだって
そもそも「これがスマートですよ。こういうのがかっこいいんですよ」というプロパガンダの結果そのように「見えている」だけであって、
そういう「指標」を必要としていること自体に、生きることそのもののよるべなさ、ぶかっこうさがあらわれている気がします。
生きていくことそのものに対する、人類(に限らないかもしれませんが)が繰り返してきた愛憎。
「異物」である他者が、世界が受け入れられないうちはまだいい。
もし「異物」が世界でも他者でもなく、「わたし」の方だとしたら?
……さまざまなギモンが、わたしの内側を縦横無尽にかけめぐっていました。
すこし混乱した頭を持て余しながら、当事者研究は後半へと進んでいきます。
後半は、参加者の一人であるNさんの半生を、Nさん自身が語っていく、という形式です。
Nさんの波乱万丈な半生の話を聞いていくうちに、わたしが肌で感じとったもの。
それはNさんの声を借り、言葉のかたちをとりながら、ながれていく風でした。
「風」。その単語が頭に浮かんだ瞬間、わたしはしずかに、でもとても深く納得したのでした。
それはスタジオジブリの宮崎駿監督、長編最後の作品「風立ちぬ」への連想です。
作品への評価はさまざまでしょうから、ひとまず置いておくとして、個人的にとても印象に残っている言葉があります。
「風立ちぬ。いざ生きめやも」
つまり、「風が立っている。ならば生きねばなるまい」
未曾有の関東大震災のシーンに、この言葉は引用されています。
どんな状況にあろうと、どこにいようと。
生まれてきたことに意味なんかなくても。
ここにいていいのかどうか、分からなくても。
そこに風が立っている瞬間、人は「生きよう」と思える。「生きなくては」と決意をあらたにする。
その瞬間が訪れるときは、問答無用なのです。
そうしてわたしは、Nさんの当事者研究のさなかに、風が立つのを感じました。
Nさんの行動力あふれる人生に立つ風は、わたしにとってはまさに突風だったのです。
それから分かったんです。
当事者研究会の前半にわたしの内側を縦横無尽にかけめぐったギモン。
あれだって、たしかに風が立った瞬間なんじゃないかと。
「とんとん」とたたいた扉から、かえってきたものはだからわたしにとって風でした。
そーねさんの当事者研究会には、風が立っている。
カルテがあってもなくても、どんな壮絶な半生でも、いま現在苦労を抱えていても。
あるいは別にそうでもなくても。
「生きるって大変だよなぁ」
「でも、生きていかなくちゃ」
胸の奥底に火がともったような、しずかな興奮と決意をわたしに運んできてくれました。
この四年間続けてきた当事者研究会のなかでも、風は確かに、あわあわと、時にはごうごうと
何度も立っていたことも、同時に思い出させてくれました。
(最近ちょっと、忘れかけていたのです。)
どんな困難のさなかでも、風が立つその瞬間に出会い続けることを、わたしは望みます。
そういうことを、頭で考えるのではなく、肌で感じさせてくれたそーねさんの当事者研究会。
今回の研究会の場をご一緒させていただいたみなさま。
ありがとうございました。
野田 彩花
2015.07.26
一ノ瀬かおる
第15回そーね当事者研究会が行われました。
炎天下。強い陽射しが照りつける中、集まっていただいた皆さんと研究を深めました。本日のテーマは雑談の中から浮かび上がってきた【「当事者性」ってなんでしょう??】となりました。
当事者研究という場で主として扱われる「当事者性」というのは「統合失調症」や「発達障害」や「引きこもり」などだとおもいます。大体が、その人の抱えている苦労のキーワードです。
” 私は「発達障害」の苦労を持っています ”
” 私は「ひきこもり」です ”
” 私は昔「不登校」でした ”
などの自己紹介がそーねではよくなされます。そこで、参加者さんからとある苦労が話題に上りました。
” 自分は昔「不登校」だった。今の自分は「不登校」という苦労の経験からできている。仕事も支援職についた。ただ、今は「不登校だった自分」と距離を置こうと思っている。その苦労を抱えている自分で社会とつながるのではなく、別の自分で社会とつながろうと思っている
”
その話に共感する人も多くいました。皆それぞれが「発達障害」や「ひきこもり」や「不登校」などの苦労をもってはいるものの、自分の状態はどんどん移り変わるから、僕は「○○」です。と自己紹介してもいいものかどうか…。例えば、とある人が不登校だったとすると、その人は「不登校」当事者だというよりも、その人のひとつの「当事者性」が「不登校」だということではないだろうか…。
そこで、そーねスタッフが『分人』という概念を紹介しました。これは作家の平野啓一郎さんが提唱している考え方です。
【分人とは】…
《本当の自分》はひとつではなく、様々な関係性によって生まれた自分の総合体が自分である。この、様々な関係性によって生まれた自分が《分人》であり、個人を考える上での新しい単位である。
…ざっくり言うとこんなかんじ?でしょうか…。さて、この分人という考え方を使って「当事者性」を研究していきました。
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【当事者性って?】
・自分のヘンなところ
・自分の役割
・自分のパーソナリティ
【当事者性が立ち上がるときって?】
・他者の当事者性の爆発を見て、自分にも似たようなところがあると気付く
・年上の同じ状況の人を見たときに「これじゃだめだ」と思って
・震災があって「死」を感じた時
・自分を直接見ずに、他人をみて、自分をみる「斜め見」がある
・強い外圧によりひきだされる
【分人のしくみ】
・分人には影響力の大きい分人やささやかな分人がいる
・人に会う度に色んな分人が生まれている
・使い分けている
・自分の中にある分人を「ブレンド」しながら出している
・「ブレンド」を間違うと、その場で苦しい気分になる
・「分人」が生まれるのは人間と向き合ったときだけじゃない
・ゲームや小説と向き合ったときにも「分人」はうまれる
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そーね当事者研究会は、どんな当事者性を持つ人を対象とするか設定せずにスタートした場です。そーねスタッフには精神病と向き合う専門家がいるわけでもなく、当事者研究のエキスパートがいるわけでもありません。当事者研究に興味を持ったメンバーが集まって、当事者研究会をやってみたいという思いから動き始めて、あとは「ご縁まかせ」にして、ゆるくやっております。今日の会の最後では「居場所」について研究しましたが、そーねができることは「集まってもらった人たちの当事者性の立ち上がりに立ち会いつつ、その人たちにおまかせしながら場を作っていくことだとおもう」と考えました。
関西圏でも様々な当事者研究会があります。その場その場で会のカラーは色々でとてもカラフルです。そーね当事者研究会に関しても(内部の者は自覚できないのですが、他の方から見れば)そーねのカラーがあるのだと思います。
次回もそーね当事者研究会で、みなでゆるりと研究したいと思います。そーねのカラーに興味がある方、あなたの「当事者性」のカラーに合う・合わないはあるかもしれませんが、また是非ご参加くださいませ。今回参加してくださったみなさま、ありがとうございました。
来月のそーね当事者研究会は
第16回 【 8/6(木) 18:30〜】
第17回 【 8/23(日) 14:00〜】
です。
2015.06.21
一ノ瀬かおる
今回は「爆弾の研究」を行いました。
ストレスがたまった時に、twitterやfacebookで自分の心情をどっと吐露する。そんな「爆弾」を投下している参加者さんが研究を発表してくれました。
SNSにより不特定多数の人に「爆弾」を投げることにより
・自分のビョーキを公表する
・自分から離れていく人・離れていかない人を見つけ、試している
・すっきりする
という効能があるのだそうです。
このようにして、この参加者さんは今でこそSNSを利用して「爆弾」を外に投げていますが、昔は「爆弾」を外に投げることができず、体内にとどめていたそうです。それらは「オーバードーズ爆弾」や「リストカット爆弾」などになり、爆発するととても体に悪いものでした。
その場のみんなで自分を振り返り、爆弾を外に投げることが多いか、内で爆発させることが多いか、それぞれの爆弾処理の方法を点検しました。
そんな中、参加者から「投げられた爆弾をみていると、それが自分の言いたかったことだったり、自分のストレスと同じものだったり、共感できるものだったりする。」という意見が出ました。「そうなると、爆弾をなげてもらうと、ありがたいときがある。」「他人の爆弾が、よい火薬として利用できることがある」「爆弾は、花火に見えることがある」という意見も出ました。ただ一方で、「宛先がある爆弾」はつらい。という意見も出ました。
SNSを利用することにより「宛先のない爆弾」を、不特定多数の他人が目にする機会が生まれています。べてるの家の当事者研究でも、「爆発」という概念はよくつかわれますが、「爆弾」という概念で、改めて自分の苦労を研究することで見えるようになることもたくさんあると感じました。
そして、会の後半は、「爆弾」の研究をふまえ親子関係の研究になりました。
各々が思う、時代背景と親子関係の推移を話し合ったり、選択肢・否定・肯定・コントロールなど、様々なキーワードをきっかけとして意見が出されました。参加者は、親の目線の意見を持つ人と、子の目線を持つ人がだいたい半々で、それらの立ち位置の意見がどちらも聞けました。
特に象的だったのは、「親になるのは免許が必要なわけではなく、どんな人でも親になる可能性がある。ただ、どんなに子育てが完璧なプロがいたとしても、その人が自分の子供を育ててくれるわけではない。自分の子供を全身全霊で育てるのは自分しかいない。下手でも、わかってほしい」というお話。そして、「親は一生懸命育ててくれて、選択肢もたくさん提示してくれた。ただ、選択肢はたくさんあるけど、失敗は許されないと思っていた。そこからドロップアウトし始めた自分を、否定され続けていた時、学校のカウンセラーに、そんなにがんばらなくていいんだよと言われた瞬間に、号泣した。」というお話でした。
次回も、そーね当事者研究会で、みなでゆるりと研究したいと思います。
今回参加してくださったみなさま、ありがとうございました。
来月のそーね当事者研究会は
第14回 【 7/17(金) 18:30〜】
第15回 【 7/26(日) 14:00〜】
です。
2015.06.03
一ノ瀬かおる
2015.05.30
一ノ瀬かおる
2015.05.14
一ノ瀬かおる
本日は第11回そーね当事者研究会でした。
第一部は、みなさんにそーね当事者研究会の印象や希望などを伺ってみました。
参加者の皆さんは、普通なら出会わないような人と出会って、ちゃぶ台を囲んでわいわいと話すこの空間を気に入ってくださっていました。また、そーねの当事者研究会は、わいわいと話すうちに浮かび上がってくる一つのテーマについて、皆で話をしているうちにいつのまにか自分の内面の話をぽろりと話してしまう会。と、とらえてくださっていたようでした。開始から一年になろうとしている当事者研究会、気に入っていただけて、とてもとてもありがたかったです。
そして、本日浮かび上がってきた当事者研究会のテーマは「先へのとらられ・過去へのとらわれ」。
自分の過去の経験にとらわれるからつらい気がする。それだったら、将来を考えて先のことにとらわれて今が考えられなくなってしまうこともつらい…。参加者さんからあがってきたそんな話が、ひとりひとりの琴線にふれ、その話題が膨らみ「とらわれ」という切り口で研究することに決まりました。
そして、皆さんが持ってきてくださった差し入れおやつをほおばりながら(ありがとうございました!)休憩をはさみ、第二部へ。
第二部は、参加者の中で「不登校」や「ひきこもり」の経験がある方が語ってくださいました。
”社会の定型とされる価値観から外れた自分は、そのことにコンプレックスを感じる。するとそれが、ただならぬエネルギーを持ち始める。そのエネルギーを「気負い」や「とんがり」に変化させ「自分は成功者になるのだ」というストーリーを強く描き出してきた。そして、自分はNHKスペシャルに取り上げられるような人間になるのだ!という「NHKスペシャル・シンドローム」が始まる。それが、自分をつらくしている時がある”
このお話には、おもわず自分の過去を振り返らせる力があり、皆さらに「とらわれ」について考えました。「とらわれ」をホワイトボードに書き出し、自分と切り離してながめていると、「なんだかいとおしく感じる」「なでなでしたくなる」という意見がではじめました。
必死に気負っている「とらわれ」の真っ最中。その人はとてもつらい状況かもしれないが、ふとこうやってながめてみると、がんばってるなあとかんじる。それがいとおしく思えてきた。
これは不思議な柔らかさを持った意見で、「とらわれ」を何回も通過してきた自分だからこそそう思えるとのことでした。この「とらわれ」のエネルギーをプラスの方向に活用する方法を探したい。という意見も出ました。
そして、今回の発見は
『「とらわれ中の語り」と「とらわれ後の語り」は違う。』
とらわれ中は、自分がとらわれている事に気付きません。そして、とらわれていたことに気付いた後は、自分の立ち位置が変わっています。だから「とらわれ中の語り」と「とらわれ後の語り」はちがう。
周囲の人の語りをきいて、過去の自分を振り返って、「あれ?なんか違う気がする!なんだかとらわれているんじゃないかな?」とおもう時。それをひとまず「とらわれ中の語り」であると考えてみる。するとどうなるか、また研究してみたいとおもいます。
今日もこうやって皆で研究して、自分の中にまた新たな感受性を身につけられた気がします。本日ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
来月の当事者研究会は
第12回 【 6/11(木) 18:30〜】
第13回 【 6/21(日) 14:00〜】
です。
またゆるりと研究します^0^
2015.05.03
一ノ瀬かおる
NPOそーねにて「ちゃぶ台カフェ 連続読書会」第一回を開催しました。
「イスラームについて学ぼう」というテーマのもと、應典院寺町倶楽部とNPOそーねで一年を通して行う連続企画の第二弾。今回はNPOそーねでの読書会です。
読書会では毎回テーマを設けながら、釈徹宗先生のご推薦の本『イスラーム概説(書肆心水 刊)』を読みます。今月のテーマは「ムハンマドの生涯」。448pという大ボリュームの『イスラーム概説』。その第一章には、イスラームの開祖・ムハンマドの生涯が書かれています。
その第一章をまずは参加者の皆様に各自で読んできていただいて、読書会で概要をおさらいしていきました。
地名・人名・文化ともに、私達日本に住む者には馴染みのないものが多く、一通り読んでも掴みきれないそのストーリーに沢山の疑問が浮かび上がります。その疑問を話し、集まった参加者皆で共有する事により、ますます疑問は増えていきます。
ちなみに、この読書会には「ガイド役」はいません。これらの疑問に答えてくれる専門家役の方はおらず、皆が同じラインでイスラームを学んでいます。
このイスラームを学ぶ連続企画は「イスラームへの問いを深める」ことを目標としています。ですからこの読書会も、答えを見つけることを目指すのではなく、まずは問いを持つことをねらいとしています。
第一章を読み終わり、参加者が今日各自で見つけた「問い」を出しあいました。
・イスラームが宗教的寛容(p36)の精神をもつなら、どの時点からISはあのようになったのか?
・異教徒に裁判権を保証したとあるが(p35)別宗教同士の争いなら誰がさばくのか
・イスラームが生まれた当時のアラビア半島の宗教事情をもっと知りたい
・イスラームの女性は優遇されている?(p35)
・イスラームの金銭的な価値観は、資本主義とは相成れないのでは
・一神教と偶像崇拝の争点が掴めない
・改宗した当時の人々がイスラームを信じた根拠を知りたい
・ムハンマドは貧しい土地に秩序をもたらしたのか
・アラビア半島の統一は、都市民の争いの歴史に思える
・商人の文化・物流が宗教布教に強くかかわっているのか
・偶像崇拝禁止は、どこまでをいうのか
などなど、各々問いをたてていく参加者の皆様。
深まる問い。そして、より自分の学びたいことの精度が高まっていく様は、不思議な充実感と、さらなる学びへの意欲をもたらしました。
この流れがさらに大きくなって、よりよい次につながっていくように、この連続企画を進めていきたいと思います。
次回は6月3日應典院にて「まわしよみイスラーム」です。
その次は7月3日NPOそーねにて「ちゃぶ台カフェ連続読書会」です。「信仰」をテーマに、第四章を読みます。
2015.04.13
一ノ瀬かおる
本日は天満橋のフリースクール・フォロ内の当事者研究会「づら研」に参加しました。
いきづらさの研究会・通称「づら研」は、月に一回大阪ボランティア協会内の会議室を借りて活動されています。
開催時間は四時間。
希望される参加者さんが、自身の研究をまとめたレポートなどを作成してきて、時間をかけてじっくり丁寧に発表します。
今回の発表者は、ひきこもり経験をもつ男性。
この方は、そーね当事者研究会にも参加されている方で、そーねで行っている「ひきこもり当事者研究」の発表を、づら研でされることになったのです。
ホワイトボード写真入りのレポートを使い、その方の研究を皆でシェアしました。
そのレポートは、とても素晴らしいものでした。
経験は、表現するまでは自身の内側にとどまっています。
それが当事者研究という窓口から、すこしづつ外に切り出され言葉を持ちはじめます。
経験をそのまま丁寧に掘り起こし、皆で眺め、考察する。経験自体をなにかに変化させようとするのではなく、それをそのままに。
自分の経験を他人と一緒にながめることで、自身では気付いていなかった意味を見出したり、語り方の「よりユニークな表現」に出会います。その「ユニークな表現」こそが研究の賜物。「ユニークな表現」は、経験が研究を通して精製された、ひとつの「作品」です。
その方の発表は、内実がありユニークで、とても魅力的でした。
その後はフリースクール・フォロに場を移し、交流会を行いました。
20名弱の方々と、各団体の活動紹介や情報交換などが積極的になされ、一方通行にならないための「双方向性」の重要さや、「表現」について、「居場所作り」についてなど様々なテーマを語る濃度の高い時間になりました。
今回、そーねで行われている当事者研究が、場を移り発表・研究される様子を見る事ができ、当事者研究の色々な可能性を感じられました。
ひとつひとつの研究に参加者が一体となって、共に苦労を眺め、共に言葉を見つけてきた。その積み重ねが今回発表されたひとつひとつの言葉にも現れていました。
この言葉達は、つらかった苦労を語るための言葉です。
しかし、その言葉から伝わってくるものはけして「つらさ」だけではありません。
その言葉のなかに、たくさんの人の顔が見え、思いが見える。
どこかあたたかさを感じられる言葉になっている。
それは、当事者研究という切り口で、苦労に言葉を与えていった結果だと思いました。
「自分自身で、共に」という当事者研究の理念について、改めて考えました。
研究会・お茶会参加者の皆様、フォロのみなさま、づら研のみなさま、ありがとうございました。
2015.04.09
一ノ瀬かおる
第九回そーね当事者研究会でした。
今回も合間にティータイムを挟みながら、ゆるい二部構成で研究に取り組みました。
まず第一部では、当事者研究の理念と言葉のおさらい。
阪本病院デイ・ナイトケアなかまの家さんからお譲りいただいた「なかまの家 当事者研究ノート」を皆で拝見し、気になるワードを皆であげて、自分の当事者研究の経験をシェア。
第二部では、自分の生活の苦労、仕事での苦労などを皆でプリントに書き出し、そーねのちゃぶ台にならべて皆で眺めました。
そうして浮かび上がってきたのが「メール・コミュニケーションの苦労」。
メールの文章作りが苦手という話から始まり、文章を考えすぎて時間がかかってしまう苦労や、返事が短すぎるのか素っ気ないと感じられてしまう苦労、相手の返信が早いと緊張する苦労、逆に遅いとそわそわしてしまう苦労、「既読」マークが気になってしまう苦労など、色々な苦労が出されました。
そして、その対処法として、メールは二行と決めてしまう技や、夜書いた感情的なメールは一晩寝かせてみる技や、次に会ったときに「ピント」を会わす技、メールは「ひとりごと」な距離感でつくる技などが出ました。
メールはコミュニケーション。相手との信頼関係を構築できればいいね。また、苦労の情報公開してみると同じような苦労を抱えている人がとても多いのに、なぜ苦労が減らないんだろうね。と皆で盛り上がりました。
今回の研究会は、改めて参加者のみなさんと共に当事者研究の理念を考えてみる場となり、最後は当事者研究をしてよかった事をひとりづつ発表しました。
次回は4月26日の14:00〜です。
きっと次回もゆるりと研究します。興味がある方は。ぜひお立ち寄りください。
2015.04.03
一ノ瀬かおる
應典院寺町倶楽部・NPOそーね協力企画 「まわしよみ・イスラーム~宗教記事を読み解く連続会 第一回」が應典院で行われました。
こちらの企画は、應典院寺町倶楽部とNPOそーねの協力企画の第一弾です。
「まわしよみ・イスラーム~宗教記事を読み解く連続会 第一回」では、参加者が持ち寄ったイスラム関連の記事が掲載されている新聞を皆でシェアし、自分が気になった記事をまずは切り取り、なぜその記事が気になったかを話し、新たな台紙に記事を貼りつけ再編集し、オリジナルのまわしよみイスラーム新聞を作っていきました。
可視化されていく、等身大の「イスラムへの問い」。
・多くあるイスラム教の派閥の、それぞれの主張がわからない。
・「若者達はイスラム国に参加したい」のか?
・過激派とは誰が名付けているのか?
・積極的平和主義は平和ぼけといえるのか?
・誰が、国を国として認める事ができるのか?
・大規模な軍事行動をするお金はどこから出ているのか?
・「平和的なイスラム派閥」の考え方を知りたい。
参加者それぞれが感じた問いを、切り出し、全員で眺めました。
イスラムを考える為に、学ぶために、まずは問いを深める。
その第一歩めとなりました。
毎月3日、開場は應典院とNPOそーねを交互に行き来し、應典院では「まわしよみ・イスラーム〜宗教記事を読み解く連続会」を。NPOそーねでは「ちゃぶ台カフェ 連続読書会」を行い、一年をとおして「イスラムへの問い」を深めていけたらと考えています。
みなさまも是非ご参加ください。
〈連続企画・案内〉・・・・・・・・・・・・・・
【まわしよみ・イスラーム】
http://www.outenin.com/modules/contents/index.php…
【ちゃぶ台カフェ 連続読書会】
http://npo-sone.jimdo.com/イベント/ちゃぶ台カフェ/
2015.02.17
日髙明
最近は「ひきこもり当事者研究」の流れがあります。
「ひきこもり:自宅や自室に長期間ひきこもって社会的な活動に参加できない状態」(大辞林第三版)
ということなんですが、経験者に話を聞いてみると「自分の家にずっと居ること」はひきこもりの必須条件ではないようです。
けっこうアクティブなひきこもりもいる。
参加者のお一人の言葉
「ひきこもりって家に居るっていう物理的な状態のことじゃなくて、心がひきこもってるんです。」
家族とだったらボウリングや旅行に出かけられたり
イオンモールに入り浸ったり
京都の街を散策(巡礼?徘徊?)したり
自転車で疾走したり
生活の仕方もさまざまで、規則だたしく健康的に生活する人もいれば、逆に昼夜逆転で暮らす人もいる。
一般的な「ひきこもり像」とちがって、バラエティ豊かです。
そうなってくると、あ、自分もひきこもりだったんだ、と思う人もいます。
仕事を辞めた。気力が枯渇した。
この友だちとなら話ができるけど、あの友だちはちょっと無理、というように特定の人と疎遠になってしまった。
ユングにはまってマルクスを読んで株取引を始めた。
などなど。
これまた千差万別です。
ひきこもりって何か特定の生活形態を指すのではなく、社会にたいしてスタンスの取り方が定まらなかったり、自己開示の度合いが比較的低い状態みたいなもので、かぎりなく社会参加に近いところから自室の布団の中まで、揺れる振り子を生きています。
そのときそのときの状況におうじて、他者に向かい合うときに、落ち着くキョリ感があります。
公共交通機関がだめ、イオンモールはOK、いや私は阪急デパートの人混みのほうがよかった、とか。
以前の当事者研究で、 「全ヒキ」と「半ヒキ」というのに分けてみたのですが、それならひきこもりを終了して社会に出るっていうのも、「全出」と「半出」に分けられるんじゃない?
というわけで、じゃあ理想の「全出」ってなんだ、「全出」になればバンザイか、ということで、ようやく見えてきたテーマが「全出の研究」。
全出というのは、たぶん、社会に出て活躍している理想型の自分です。
たとえば、ばりばり仕事をこなして、稼ぎが多くて、だれとでもスムーズにコミュニケーションがとれて、イノベーティブで…。
こういった、「すばらしい」価値を凝縮させた自分。それが「全出」です。
ありがちなのは、その全出を、半ヒキ・全ヒキの真っ最中に、達成すべき目標として設定すること。
「半出」をすっとばして、つぎの一歩を大きく大きく「全出」にまで伸ばそうとする。伸ばさなきゃいけないと思ってしまう。
でも実際には大きなギャップがあって、その溝を前にして一歩が出ない。
そしてこれまたありがちなのが、「ふつう」の社会が、全出に向かって一歩踏み出すのを望むこと。
なんだったら無理やりにでも引っ張りだそうとする。
その前提には、こっち(全出を理想とする社会)が現実だから、という信念があるでしょう。
殻に閉じこもっていてはだめだ、自分勝手な妄想とか、マンガとか、ゲームとか、そんなファンタジーの世界に籠っていてはだめだ、と言う。
不安を感じると訴えれば、じゃあ薬出しますねーと無理やりにでも不安を抑えこんで、リアルな世界に適応させようとする。
「ファンタジーは嘘ものだよ、リアルな世界に出ておいで」
と言う。
ほんとでしょうか。
理想の全出は、社会のなかで作られたひとつの価値、物語です。
ただ「みんな」がそれを信じているから、「リアリティ」になっている。
もちろん社会のなかで「みんな」がよしとして通用しているものだから、そんなに軽い価値じゃない。
でも、それはやはり社会的に共有された価値であり、物語です。
自由で、自律していて、自己責任を引き受ける個人が、より速く、より効率的に、より積極的に、社会の中で立ち回るんだ、それこそが正しい人間だ、という近代の大きな物語です。
リアリティと見なされていたものも実は大きな意味でファンタジーなんじゃないか。
すなくとも、リアリティと呼ばれるものもやはり作られたもので、ファンタジーと別物ではない。
私たちは、ゲームやマンガの世界を通して、登場人物と仮想的にコミュニケーションをして、世間の文法を学ぶことができる。
ファンタジーを通して、現実を知っていく。
ファンタジーが、社会への橋渡しになる。
そういう側面もあるはずです。
ファンタジーを否定して、無くしてしまって、ヒキ状態から社会に「全出」するのが解決になるのではない。
それは、たんに共有度の高い物語を、唯一の現実にしてしまって、そこに当事者を縫い付けてしまうことになる。
その物語を共有できないからこそ、ひきこもっていたのに。
「人間どもはファンタージエンとそこからくるものをみんな憎み、怖れるんだよ。やつら、そういうものを亡ぼしちまうつもりだぜ。まさにそれが、人間世界にひっきりなしに流れこんでくる虚偽(いつわり)をどんどん増やしてるんだってことには気がつかねえんだな。」ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』
ただ、他者性のないファンタジーには危険もある。
だから少しだけ風通しをよくする。
ある物語と別の物語のあいだに通路をつなげたり、ふたつの物語を組み換え編集したりすることが大事なんじゃないかと。
当事者研究会でやっているのも、自分の苦労の物語を他者とともに編んでいくという作業なのだと思います。
化学反応で、思ってもいなかったことを自分が語り出したり、予想していなかった結論で納得したり。
それは非当事者にとっても、自分が生きている物語の枠組みの組み直し、さらに言えば掘り崩しての再構築作業になります。
今回もまた、それを実感した会になりました。
2015.01.
納谷久美子
今回のテーマは、自己病名の「優等生病」と「劣等生病」について。
自己病名とは、自分で自分につける病名です。病気の本に載っている難しい名前ではなく、楽しく分かりやすい名前をつけて、自分の特性を自分で研究します。それが当事者研究です。
「優等生病」とは、「ほめられたい!優等生でありたい!」と思って、過剰にがんばってしまうことです。
がんばることは良いことですが、がんばりすぎると、疲れてしまいます。また、なまけてしまったときや、優秀な成果が出せなかったときに、自分を責めたり、落ち込んだりしてしまいます。
「劣等生病」とは、逆に「どうせ自分は劣等生だ。何をやってもうまくいかないんだ。」と、がんばらなくなってしまうことです。
「また失敗するに違いない!」と思って、難しそうなことや、新しいことに挑戦するのが怖くなってしまいます。
全く逆のように思える優等生病と劣等生病ですが、「実は、おおもとは同じなんじゃないか?」というところから話が始まりました。
まず、「どちらかといえば、自分は優等生病だと思う?劣等生病だと思う?」と手をあげてもらいました。今回の参加者は劣等生病が多数でした。
優等生病や劣等生病は、どちらか一つしか当てはまらないものではなく、どちらも、誰もが思い当たるものでしょう。「どんなときに優等生病や劣等生病になるのか?」と、みんなで考えました。
「好きな人の前では頑張るけど、どうでもいい人の前では頑張る気をなくす。」「好きな人には弱みを見せてもいいから失敗しても安心できるけど、嫌いな人には弱みを見せたくないから頑張ってしまう。」など、さまざまな意見が出ました。
盛り上がって、「もっと話したい!」というところで時間が来てしまいました。続きは、またいつか参加したときに。それまでに、自分の優等生病・劣等生病について、しっかり考えたり、まあまあ考えたりしましょう。
そーねでは、できるときに、ゆっくりと、研究しています。どうぞ気軽に参加してください。
應典院コモンズフェスタ企画
2015.01.11
多谷ピノ
1月11日(日)應典院にて、コモンズフェスタ参加企画「とりつき妖怪大研究」を行いました。
参加者の皆様と一緒にそーねメンバーもサイコロをころがし、すごろくに参加させていただきました。
すごろく自体は難しいものではありません。サイコロをころがして、マスを進む、アレです。
「妖怪チェック」のマスに止まると、そーね特製の妖怪カードを二枚引いていただきます。
「上からメッセンジャー」「あたまでっかち」「セキメンインコ」「さみしガーリー」「ベルイヤー」「しらんプリン」……。引いたカードの妖怪が、自分にとりついているかどうか話していただくのですが、これがかなり楽しかったです!
たとえば「しらんプリン」という妖怪は、「知らないふり」をする妖怪なのですが、それを引いた男性は、「むしろ、知っているふりをすることの方が多いかも……」と「しってるプリン」という新しい妖怪を生み出しました。
そんな私は、あわてていると現れる「妖怪あわあわ」のカードを引き、ああ、これ、しょっちゅういるよなあ、とか、あらためて実感したり。
また、非常に落ち着いた佇まいの参加者の方が、「どれもこれも憑いています……」と、うっかりさせてしまう「うっかりん」や、目覚まし時計を止めて二度寝させる「ベルイヤー」のカードに親近感を抱いてくださったりしたのも面白かったです。
「妖怪ガミガミがきた!」のマスでは、今までの妖怪ガミガミに出会ったシーンを思い出して、話してもらいます。一人暮らしの方などは、怒ったり怒られたりする機会があまりないので妖怪ガミガミにあまり遭遇しないということを聞いて、始終自分の子供に怒っている私は衝撃(!)を受けました。
同じ妖怪でも、人によって現れ方が違い、とても新鮮でした。
スゴロクが終わると、新しく発見した妖怪を、それぞれ絵にして発表してもらいます。
自分が絵にした新しい妖怪を見ていると、なんだか新しい友達ができような気になりました。
描いていただいた妖怪はカードにして、次回のスゴロクで使わせていただくこともあります。いつか皆さんの手元に現れることもあるかもしれません!
新しい発見がいっぱいの、楽しい時間を過ごさせていただきました。
参加してくださった皆様、本当にありがとうございました!
(写真は絵にしていただいた新しい妖怪たちです!)